お父ちゃんと出産


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1999年9月26日、9ヵ月待っていた出産の日がいよいよやってきた。

朝起きると5時に陣痛が始まったと妻に教えられた。
それからというものは時間がスローモーションのようになった。家のストーブの周りを一人歩きまわって落ち着きがまったくない。
妻はというと、椅子に座ったりベッドに寝たりしているが、10分おきぐらいに陣痛がきているようで、体が硬くなっている。
急に思い立って僕は新聞を買いに行く。前々から自分の子供が産まれたら出産の日の新聞を残しておいてやろうと思っていたからだ。
Boston Glove と Cape Cod Times を買ってきた。

その後二人ひたすら陣痛の始まる時間をノートに書いて間隔を計算して3時くらいまで過ごす。
あまりに不安なのでかかりつけの産婦人科医(ボンバ先生)に妻が電話をする。
日曜日なので他の先生が出て陣痛の間隔が5分おきになったらもう一度電話するようにといわれる。
そっけない対応に僕は少々あっけにとられてしまう。

5時ごろになって陣痛が5分から7分間隔になった。
妻が電話をするが4分から5分になっていると言わせた。病院までは40分かかるのでそれぐらいしないと途中で産まれでもしたら困るという心配があったからだ。
案の定すぐ病院まで来るように言われた。
朝から荷物を積んでいたので、戸締まりをきちんとしてすぐに出発する。
家を出てR28を北上する。日曜日の夕方ということで渋滞を心配したが、問題なくR28を過ぎ、ボーンブリッジを渡る。その後ケープコッド運河の横を走り、R3 に入る。そして Exit 5 からジョーダンホスピタルへ到着する。
約40分、予定通りだった。

病院では個室(201号室)へ入れられる。
そこでは陣痛と赤ちゃんの心拍数をモニターされる。
嘘ついて(嘘ではなく大袈裟に言ったつもりだが・・・)陣痛の間隔を短く言ったのがばれるかなと心配するが、間隔は3から4分と更に短くなっていた。
看護婦さんに「It has been like this for more than 2 hours!」とまた大袈裟に言ってしまった。
未だ子宮は 1 cm しか開いていないので、普通なら家に帰されるところらしい。
看護婦さんに片道40分かかるからそれも考慮に入れてくれるよう頼んだら、お医者さんと相談して翌朝までモニターを続けることになった。
歩きなさいと言われていたのだが、あまりにも辛いらしくかわいそうだった。
けど帰らされるのが嫌だから、頑張っていたように思う。

夜は点滴をしてニューベインという麻酔もうってもらって寝ることになった。
僕も簡易ベッドで寝ることになったが、疲れたせいかぐっすり寝てしまい、しかもいびきがすごかったらしい。
朝1時ごろに起きると妻がぷんぷんに怒っていた。
それからは、椅子に座って妻の真横でうとうとして、妻が起きるたびに起きていたと思う。
テーブルから何回も水を取ったのは覚えているが・・・。

朝6時ごろになって妻がウンチをしたいと言い出した。
昨日、もし排便をしたくなったら知らせるようにと看護婦さんに言われていたので、そのことを知らせる。
どうやら赤ちゃんの頭が降りるのとウンチをしたくなるのと同じ感覚だそうだ。
内診をすると子宮が 3 cm にひろがっていた。
その時点で正式に入院することに決まった。

朝はご飯を持ってきてくれたが、妻は食べられないので僕が食べる。
診察はドクターサ−ベジというボンバ先生と働いている女の先生がしてくれた。
オプションとして与えられた中から、メンブレーン(羊水膜?)を人工的に破って様子を見るということに決めた。
膜を破ると後戻りが出来ないのでこの時点で後24時間以内に出産をするということが確定した。

その後子宮が 5 cm ぐらいに広がったが、陣痛の間隔が6〜8分と縮まるどころか長くなってきた。
そこで昼近くから、オキシトーシンというホルモンを打つことに決めた。
出産を促進する効果があるそうだ。
それと同時にエビダールという麻酔もうつことに決めた。

エピダールの麻酔を打つまでにかなり陣痛が早くなり激しくなった。
妻はオキシトーシンを止めてくれとか、早く麻酔を打ってくれとか言ってかなり辛そうである。
麻酔を打つ人が来たときには痛さの限界にきていたようだ。
麻酔は打つ人が下手で、3回ぐらい針を刺して、ポジションを替えてまた2回ぐらい針をさして終わったようだ。
足がしびれてきたというのでどうやら成功したように見えた、が・・・。

30分ぐらいしてやはり効いていないようで妻が再び大声をあげて痛がり出した。
「Help me!」と英語で叫び出した頃にはどうなるか僕もとても心配になった。
しばらくしてあの下手な人がまたやってきた。
こんどは、スパイナルという麻酔をかわりにうつことになった。
この麻酔は、帝王切開の時に使う麻酔らしい。
麻酔をうつので背中を見てみると、エピダールの麻酔はすべて漏れていたみたいで、背中が薬でびちょびちょだった。
スパイナルはうまくいったみたいで、すぐに痛みが無くなった。

麻酔の後はしばらく気分がよくなったらしくリラックスしていた。
そのおかげで、1時間ぐらい経つと子宮がかなりひらいて 8 cm 近くになっていた。
けど、また少し痛みを感じ出したらしく、妻が、もしこの麻酔が切れたらどうするとかいろいろ尋ねていた。
この後は無いということをクラスで習ったのだけど忘れているようだ。知らぬが仏というところだろうか。
3時間ぐらいで麻酔が切れると聞いていたのだが1時間ぐらいで切れ出した。
僕は、また、あの下手な人が失敗したなと心の中で思う。

ちょうどその頃チャイルドバースのクラスの先生だったローリンさんがナースとしてやってきてくれた。
早速、子宮の大きさを見てくれて、もう押してもよいということになった。
だいたい月曜の午後4時40分ぐらいだった。
それから陣痛が来るたびに、約10秒を3回押すことになった。
右の足をローリンさんが、左の足を僕が持って大体2から3分に一回来る陣痛のたびに押す。

妻に団扇で陣痛の合間は扇ぐように命令される。
お腹は扇がずに顔だけ扇ぐように怒られたりした。
陣痛の最中は扇ぐなとも怒られた。
大体30分ぐらいやると、ドクターがやってきた。

ドクターがやってくると、あれやこれやと器材を持ち込んだり、要らないものを部屋から出したりと忙しくなってきた。
ついつい僕はその方に気が取られ扇ぐのを忘れて数回妻に怒られる。
妻のほうは押していると痛みが少ないらしく、麻酔も切れてきたせいか、陣痛の度、押せるがままに押している。

だいたい5時半頃だろうか、ドクターが頭が見えると教えてくれた。
妻は髪の毛が生えているか尋ねる。
生えているとの回答だった。
僕は白髪は無いかと尋ねる。
無いとの回答だった。

しばらくして赤ちゃんの頭が見えてきた。
これが僕にとっての初めての赤ちゃんの実の姿だ。
頭には黒い髪があった。
押すたびに頭が少しずつ出てくる、押すのを止めるとまた引っ込んでしまう。
けど毎回すこしずつ確実にでてきているようだ。坂本九の上を向いて歩こうという歌のようだ?

それまでは、押している間も見ているだけだったが、この頃にはぼくも、もう少しだ頑張れと妻を励ます。
そのせいか、押すと痛みが減るせいか、思いっきり妻は押している。

おかげで、5時44分に赤ちゃんが産まれる。
頭が出ると残りの体は滑るように出てきた。
出ると同時に赤ちゃんが泣き出した。
それと同時に僕も泣き出した。
今まで感動したことはいっぱいあったけど、この瞬間の感動は、今までの何よりも感動してしまった。

体を拭かれた赤ちゃんが妻の上に置かれた。
それを見ながらまた、僕は泣いてしまった。

体重は 3125 g (6 lb 14 oz)だった。
予定より2週間早いにしては大きなやつだ。
髪の毛もふさふさだし、とてもかわいい。
猿のような赤ちゃんが産まれてくるものだと覚悟していた。生まれたてはみんなそうだときかされていたから。
けど丸くってとてもかわいい赤ちゃんだった。

産まれて1時間後には器材も運び出され、落ち着いてきた。
早速、日本のお爺ちゃんお婆ちゃんに連絡した。
その後、トーリーさんとオフェリアさんに連絡する。
そして保険会社に手続きの電話をする。

こうやって赤ちゃんとお母さんと僕との3人の生活が始まった。

その日には、僕がおむつを始めて替える。
2日の入院生活はあっという間に終わってしまう。
母乳は吐くし、体重は減るしで、退院前からかなり心配させられる。
退院後は黄疸がひどくなり、土、日、月曜と3日続けて病院へ行く。
結局、問題はなく終わったのだが。

2週間後には 7 lb まで体重が増えていた。
これは1週間前の 6 lb 1 oz から1ポンドの増加だ。
体重を知った時には思わず喜びに叫んでしまった。

今は3週間目が終わろうとしている。
おむつかぶれもでき心配したが、こちらもいろいろ試した結果タオルでお尻を拭けば良いことが分かった。
もうすでに数知れず、僕におしっこを飛ばし、ウンチをかけ、おならをかけた。
どうもおむつを替えるタイミングが良くないようだ。

まだお互いにお互いを知ろうとしている段階だ。
これからも数多く分からないことが出来てくると思う。
この段階がいつまで続くかは分からない。
ひょっとしたらずっとお互いを理解せずに終わってしまうかもしれない。
でもこの感動を与えてくれた息子を理解できるようにがんばりたいし、大切に育てていきたいと思う。

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